邪馬台国九州説








なぜ直角三角形なのか

日田には日隈・月隈・星隈という3つの丘があり三隈三丘と呼ばれています。日隈は筑紫溶岩、月隈と星隈は阿蘇溶結凝灰岩でできた自然の侵食残丘です。盛土と一部に石垣が見られることから、その岩山を元に、現在見られる美しい形に造成したものと推測されます。

その三隈三丘のうちの星隈・日隈と、隈山という墳丘はほぼ正確な直角三角形を描いています。星隈・隈山の経度はほぼ同じで、隈山と日隈の緯度もまたほぼ同じです。

星隈と日隈は場所を動かせませんから、直角三角形の配置を作るには、星隈から真南に延ばした線と日隈から真西に延ばした線が交わるところを探し出し、隈山を造らなければなりません。

大きな筑後川が間にあり測量困難なこの地で、あえてこの配置を計画・実行したということは、並々ならぬ意志と目的があったと思われます。


特に三角形を意識せず、隈山から見て北と東がわかる位置にしたという見方もできますが、方位を知るためには四方に石を置くなど、簡単・確実な方法がいくらもありますから、ここまでのものを作る必要はありません。三角形という形に、特にこだわったと見るのが妥当だと思います。

九州の装飾古墳に多数描かれている三角形の文様は、魔を祓う意味を持つシンボルであると考えられます。地上に描かれた巨大な三角形は、こういった宗教的な理由ではないかと思われます。





邪馬台国九州説





3つの丘の造成は1つの大きなプロジェクト?

隈山から見て北極星の方角だから星隈、日の出の方角だから日隈と名付けられたとすれば、大変理にかなった名前と言えます。

だとすれば、これらの名前が付けられた時の星隈・日隈は、すでに聖地の丘として現在のような形に整えられていたと考えられます。

ヒサツヒメや卑弥呼のような権力を持つ宗教者の王であれば、生前に自然丘・三隈三丘を聖地として整備・利用し、死後の墓の位置を特定・指示または築造開始していたとしても不思議ではありません。

隈山の北西側には巨石が露出し、木の間から見える限りで7m以上の高さの石組みが確認できます。いずれにせよ、大きな富と権力を持った支配者によって計画されたことは間違いありません。





星隈 隈山 日隈





形がよく似ている、三隈三丘と隈山

この4つの丘の大きさ、形状、頂上部分の配置は大変よく似ています。

地図の等高線を見ると、3つの丘は全てアーモンドの形のように片方が丸く、反対側が尖った形をしています。広場になっている頂上部分は中心からずれた位置で、いずれも丸くなっている方に寄せて作られています。

頂上広場は、比較的原型に近いと思われる隈山・星隈と会所山では、細長い形が大小2つに区切られており、星隈では小さい広場は一段高く作られて石段がついています。ここで神事が行われたのでしょうか。

地図で計った長径と、標高差からのおよその高さは以下の通りです。

星隈 長径167m 高さ約20m   日隈 長径202m 高さ約30m
隈山 長径172m 高さ約20m   月隈 長径228m 高さ約30m





三隈三丘





方位計測方法の推測

固定された2地点から、直角三角形の直角の頂点を見つける方法とはどんなものだったのでしょうか。大きな川が邪魔をしていても可能な、最も簡単な方法を考えてみました。

夜、星隈の上で火を炊き南から見ると、北極星と炎は2つの目印となります。この2点が垂直となる場所を見つけるためには、重りを付けたヒモを垂らして使います。北極星と炎が同時にヒモに重なる地点を複数特定すれば、真南のラインがわかります。

もし北と同じように東のラインを見つけるとすると、日隈の他にもう1つ東の目印が必要です。日隈と隈山の間には長く川が横たわっているため、目視に適する間隔の目印を作ることはできません。日隈の東にある山上に目印を作るのが、最も適当と予想されます。

しかしその目印となる地点を見つけるには、前もって日隈と山との間にも目印を作らなくてはなりません。これは測量可能な地域なので大した問題はありませんが、その後の東側の山上で該当ラインを探す作業は、草木が邪魔をして大変困難であったと思われます。

日隈からの東西ラインを見つけた会所山の北頂では、苦労して得た正確な方位をずっと残しておこうと、現在も残る東西一直線の石の配列を作ったのかもしれません。


なお会所山北頂に 10進緯度33.314の地点があることは確かですが、東西に並ぶ石の列がその緯度に当たるかどうかは、まだ検証していません。

また個人的には東のラインを求めるのに上記のような煩雑な検証は必要ないと思いますが、会所山北頂の石の配列から、1つの可能性があると思い書いてみました。










太陽信仰の終焉

時代が下った古墳時代には、日隈頂上に日隈古墳、月隈中腹に月隈横穴墓群、星隈中腹に星隈横穴墓群、隈山中腹に隈山古墳が作られました。

このことから古墳時代にはすでに、祭祀を行う聖地としては使われなくなり、具体的な意味は忘れ去られていたことがわかります。支配者が変わるにつれ宗教観、宗教そのものも変わっていったのでしょう。

金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が、作られてから約400年後のこの時代に古墳に納められたことも、それを実証しています。


中世になると、1594年 日隈に日隈城が、1601年 月隈に丸山城が築かれました。この2つについては、古代の姿からかなり変わってしまったのかもしれません。

現在は、日隈は日隈神社、月隈は月隈神社、星隈は星隈神社、隈山は一般墓地となっています。






直角三角形の頂点の座標

今回の方位座標は地図上の頂上部分で、中心と思われる位置にしました。
(会所山北頂のみ中心より北側の位置です)

10進緯度 10進経度
星 隈 33.325219287987 130.90540914532
隈 山 33.314943677888 130.90583333325
日 隈 33.314420110831 130.92866173113
会所山北頂 33.314009422097 130.94958333328

緯度 経度
星 隈 北緯33度19分30.79秒 東経130度54分19.47秒
隈 山 北緯33度18分53.8秒 東経130度54分21秒
日 隈 北緯33度18分51.91秒 東経130度55分43.18秒
会所山北頂 北緯33度18分50.43秒 東経130度56分58.5秒



星隈

隈山

日隈

会所山



三隈川支流 庄手川








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