日田の古代王国







古代の日田郷





現在の日田市は、古代と明治時代の日田郡とほぼ同じ地域のように見えます。2005年の前津江村、中津江村、上津江村、大山町、天ヶ瀬町の合併で日田市の範囲が変わったと聞いていましたが、千数百年以上前の範囲に正しく戻ったようです。

下記表の、豊西記矢野家伝に記された古代の村名の中で、2009年の地図に載っている地名を赤と青にしました。実に8割以上が残っていることになります。地図でざっと見ただけなので、残り10についても橋の名前などに残っているかもしれません。

また在田郷には、日田に隣接する山国町の村名(赤い文字)があることから、古代の山国は日田郷の一部であったと考えられます。

夜関郷(夜開・やけ)についてですが、現在の地図で村名を確認すると、似た表記の夜明ではなく、日田盆地北部の三和地区とその北部であったようです。


豊後国志によると五馬・大山・津江を除く日田郷(日田盆地とその周辺)には、81の村が存在していたことになっています。日田盆地は意外に小さいので、古代にしては人口が多く、賑わいのある都であったろうと思うのは私だけでしょうか。

なお以下の風土記、豊後国志、豊西記に書かれた郷の区分は、古代であってもヒサツヒメの時代よりも後の時代と思われます。





日田盆地 面積

日田盆地の面積が見つからないので、同じくらいの大きさの島を探してみました。




古代と明治時代の日田郡

風土記 豊後国志 豊西記矢野家伝 明治8年 明治22年



靫編郷
(ゆきへ)







日里郷
(わたり)






在田郷
(ありた)











夜関郷
(やけ)






石井郷
(石井村と
津江荘、
大山荘)

















五馬荘
(いつま)





父連郷
(ゆきへ)
12村






日里郷
11村






在田郷
22村





大肥荘
(おおひ)
3村



夜開郷
15村






石井郷
18村





津江荘
11村





大山荘
6村





五馬荘
24村








刃連郷
刃連武田求求里馬原湯山堀田・下山・上山




日里郷
日里草場小迫山田友田祝原鶴河内高野




在田郷
有田城内石松一ノ瀬中尾池辺師富長小野・石田・萩・上手


大肥荘
中村・中嶋




夜開郷
中城羽野用松財津藤山秋原河内竹尾小竹・十三町・林



石井郷
石井高瀬上野小畑内河野山手堂尾・岡下



津江荘
柚木大野赤石梅野栃原川原野田




大山荘
万々金小切畑鎌手・栗林




五馬荘
五馬市赤岩桜瀧本城塚田出口大鳥柚ノ木女子畑高取新城



豆田町・陣屋廻村・小城内村・中城村・堀田村 豆田町
隈町・庄手村・竹田村 隈町
刃連村・田島村・上井出村・下井出村・求求里村 三芳町
渡里村・友田村・入江村・草場村・十二町村 光岡村
南高瀬村・北高瀬村・西高瀬村・上野村 高瀬村
羽野村・用松村・財津村・藤山村・秋原村・台村・伏木村・市瀬村 三花村
池部村・諸留村・月出山村・羽田村 東有田村
中尾村・西池部村・小寒水村・上手村・石松村・坂本村 西有田村
小迫村・山田村・二串村 朝日村
河内村・林村・竹尾村・小竹村 小野村
中村・中島村・鶴河内村 大鶴村
関村・高野村・祝原村 夜明村
石井村・寺内村・佐古村・小畑村・山手村・堂尾村・南内河野村・北内河野村・川下村 五和村
大野村・柚木村・赤石村 前津江村
栃原村・下野田村・梅野村・中西村 中津江村
川原村・上野田村 上津江村
万々金村・高取村・鎌手村・小五馬村・栗林村・続木村 大山村
湯山村・柚野木村・大島村・赤岩村・桜竹村・苗代部村・女子畑村 中川村
五馬市村・新城村・塚田村・出口村・竿作村・本城村 五馬村
馬原村 馬原村






ヒサツヒメの時代と前後

1. 大和朝廷に抵抗した土蜘蛛の時代
 隈山のある石井には土蜘蛛の砦があったと記録されています。石を使わずに造った「石無しの砦」のイシナシがなまってイシイになったということです。大和朝廷に抵抗する戦いをしていたことは確かなのでしょう。日田盆地においてなぜこの場所かについてですが、朝廷軍は西の浮羽から攻めて来たからだと思います。石井の河原にはほどよい大きさの石がたくさんあるので川での戦いではなく、川から離れた陸路に砦が築かれたのでしょう。浮羽から日田への入口に当たる杭戸には近衛という名前の神社があります。また五馬の五馬媛も土蜘蛛であったということから、石井砦は破られたことがあったと推測します。負けてもまた立ち上がって抵抗を繰り返したので、土蜘蛛と呼ばれたのではないでしょうか。

2.ヒサツヒメの時代
 大和朝廷に従うことを受け入れ、ある意味での中道路線を選んだヒサツヒメは、日田に平和をもたらした賢い王であり、日田の人々の女王に対する評価はより高まったと思われます。

3. ヒサツヒメ死後
 大和朝廷に従う政治路線は、概ね継承されていったと推測します。





土蜘蛛の砦 日田





日田のヒサツヒメは卑弥呼なのか

ヒサツヒメと卑弥呼が生きた時代が1−3世紀であり、日田から金銀錯嵌珠龍文鉄鏡が出土していること、また日田の巨大な墳墓の大きさが卑弥呼の墓の大きさに近いこと、そして両者共に、富と権力、卓越した宗教統治の才能と力量をもつ女王であったことは確かです。将来隈山が調査されれば、日田の古代についてもっとよくわかるのではないでしょうか。


豊西記矢野家伝によると、古代の日田郷には隣接する山国が含まれていました。山国には、邪馬台国の渓谷とも読める耶馬溪があることから、日田郷が邪馬台国であった可能性はあると考えられます。(耶は邪からつくられた日本の俗字で同じ意味)

「1818年に頼山陽が耶馬溪と名付けた」という記述が一部に見られますが、頼山陽ほどの文人が、美しい渓谷に自ら「よこしまな馬」という漢字を当てたとは考えられませんので、古来の名前・「邪」馬溪を、俗字「耶」馬溪に変えて漢詩に書いたことが歓迎されたのだと思われます。

また本草網目訳義によると、山国の草本金山では金銀の他に辰砂(しんしゃ)も産出していました。辰砂は古代中国では丹と呼ばれて不死の薬として珍重され、魏志倭人伝には邪馬台国の山は丹を産したと記述されています。


日田が古代から金山の富を持っていたとすると、その秘密は二千年の間平和に守られてきました。出雲は石見銀山の存在が中世に公になり、外部勢力同士の戦場と化しました。日田は大変に幸運な地と言わざるを得ません。死してなお力を持っていそうな、神・ヒサツヒメのおかげかもしれません。






日田杉

幻想的な日田の杉林








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