星隈





古代に一番近い姿? 星隈

日隈・月隈・星隈・隈山の中で、比較してですが、古代の姿に最も近いと思われるのは星隈です。

今回、会所山と3つの隈の頂上に上がってみましたが、私の感想はどの頂上も長い、狭い、小さい。古代は聖地として使われていたのですから、きっと特別な人だけが、登ることを許されていたのでしょう。

星隈の頂上広場は2部式で、入口と反対側の奥に独立しているかのような小さい広場があります。一段高くなっていて、わざわざ石段がつけられています。ここで神事が行われたのでしょうか。それとも火を炊いたのでしょうか。





星隈神社





星隈は花月川のほとりにあり、花月川に面した東側下部は凝灰岩壁で、中腹には44基の星隈横穴群があるということです。

北側には盛られた土から石垣とみられる大きな石が露出しており、そのそばに古く急な石段がついています。

頂上は星隈神社と呼ばれ、祠があります。南西側は木が多く、隈山を見ることはできませんが、東側では木の間から日隈が見えました。





星隈 凝灰岩





筑後川の氾濫

日田を流れる筑後川は三隈川と呼ばれ、三隈は日隈・月隈・星隈の3つを指します。天体の名前がついた3つの丘を三隈とまとめるのは自然なことですが、もし古代から三隈川と呼んでいたとするなら、その3つは川に近い位置にある隈山・星隈・日隈だった可能性も考えられます。

日田には川の氾濫で洪水を繰り返してきた歴史があります。内陸の盆地では、水を他に排出するという古代からある治水方法をとることはできません。現在も残る、洪水によってもたらされた堆積土砂の存在から、古代日田においての治水は絶望的に困難だったことが窺えます。

特に隈山付近は大きな洪水被害が出る地域で、古代にあえてこの地に隈山を造ったのは、川が氾濫しないよう祈る宗教儀式を行うためもあったのかもしれません。

大雨が降って川の水位が上がり始めると、祈祷師たちは隈に登り昼夜徹して祈り続けたのでしょうか。その場合はもちろん、頂上には屋根のある神殿があったと思われます。





日田 三隈





古代の北極星

北極星は数千年周期で入れ替わります。

紀元前300年ごろまではコカブ(こぐま座β星)が北極星で、その後、現在の北極星ポラリス(こぐま座α星)に入れ替わりました。今後ポラリスは、2100年頃に最も天の北極に近づきます。

隈山を造った人々が見ていた北極星はポラリスだと思われますが、現在の北極星ポラリスの位置と比べると、より天の北極からずれた位置にあり、わずかですが動いていたでしょう。







日田の成り立ちに関する伝承

日田郡は大きな湖水で、周囲は高い岡や峯で囲まれた人跡未踏の地で、古木におおわれ、時に鳥の声や狼・猿の鳴声が聞え、鳥でなければ通うこともできない神秘な所である。湖水は荷葉の形をし、その広さは120余町で、東南方に向かっては200余町であり、神船を以ってしても、時を得なければ渡ることができなかったという。

地神第五代の時代のある夜、三個の大きな流星が湖水に降下した。日ならずして、今度は空より大きな鷹が飛来し、朝日の光とともに湖上を飛びながら一声鳴いた。その声は電雷のようで、天地は忽然として振動した。それは山が鳴ればすなわち谷が応じ、暴風は木の枝を折り、葉を飛ばし、砂石を空に吹き上げ、波煙は天にかすむようであった。

二声を発すれば、ますます天地をゆるがし、岩石をくだき、草木をなぎ倒した。この時、猛獣たちは騒々しく岳嶺にかけ登って死をまぬがれようとしたが、高い所から落ちたりして悉く死んでしまった。

この鳴動が止まない内に鷹は三声を発した。烈風が吹き荒れ、天雷は波を覆す。山は崩れて谷を埋め、洪波は白くにごって逆流し空天を衝いた。西・東・南の崖はたちまち崩れ、西南の峯も一瞬にして砕かれた。湖水が流れ出した時、大きな龍が現われ、水を追って崖に登り、岩を穿ったため、險獄は原野となり、原野は谷になった。

これが三岡、八原、七節途となった。大鷹はこの状況をみて自然と天に昇り見えなくなった。三岡とは日・月・星の三岡で、湖水に落ちた流星が岡になったものである。南の崖に近い所を日隈、北獄に近いところを月隈、西山に近いところを星隈と名づけた。

大鷹が飛来し朝日とともに湖上を飛びまわったことにより開けたので、郡名を日鷹郡と名付けた。その後、石井某が肥田と改めたが、八幡宮来現の時、大蔵永弘に対し、日鷹・肥田の郡名があるが、この地方は「日天温和」の地であるので、八幡自身が水田を守護するから日田と改めよといったことにより日田の名が付いたという。

豊西記 矢野家伝 日田郡開起巻一 より






星隈






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