比佐津媛と卑弥呼





ヒサツヒメ(比佐津媛、久津媛)と卑弥呼

豊後国風土記には、「景行天皇が熊襲征伐の帰りに、うきはの御座所を出発して日田郡に到着した。久津媛という神が天皇を迎え、日田郡の状況を説明した。これによって久津媛の郡と命名された。日田郡というのは久津媛の郡のなまったものであるという。」と書かれています。(1900年前?)

この文章からヒサツヒメについて以下のことがわかります。

1. 天皇を迎えるほどの実力者で、日田で一番地位が高いらしい
2. 日田の状況を説明したことから、政(まつりごと)に携わっていた
3. 自分は神であると公言している
4. 景行天皇はヒサツヒメの対応に満足し、その地位を認めた

日田の人々は、女王ヒサツヒメは神であると信じ敬っていたことでしょう。


中国の史書・魏志倭人伝には、およそ1800年前に日本に存在した古代の女王、ヒミコについての記録があります。

238年、卑弥呼の使いは海を渡って魏の皇帝に謁見。使者は皇帝に貢物を渡し、皇帝は遠方からの朝貢を悦び、長旅の労苦をねぎらい、莫大なお返しを贈ったとあるのは、ヒミコの初めての朝貢は万事うまくいったということです。

しかしながらヒミコについては、ヒという音に卑しいという字を当て 「鬼道をよくし、民衆を惑わす」と書いてあります。この不協和音はいったい何を意味するのでしょう。

たとえ本当に呪術に長けていたとしても、風聞によって不快感を記録するほどの事柄ではありません。一方古代から、中国の書記官たちは仕事に大変真摯で、命懸けで真実の記録を残してきたことも事実です。


そこでもし、卑弥呼がヒサツヒメのような女王であったらどうでしょうか。

2人の使者は口を揃えて「我国の女王は人間ではなく、神なんです。」と言ったことでしょう。「真実の記録に命をかける」書記は、その言葉をそのまま記録したでしょうか。

顔を上げて使者たちの真剣な表情を見、通訳に何度も確認させてから、 「女王はきっと、怪しい呪術をうまく使って臣下・民衆を惑わしている」と思ったかもしれません。









豊後国風土記の記述から浮かぶヒサツヒメ像

天皇を迎えた → 日田のクニの女王であった
政に携わり情報を押さえていた → お飾りではなく実権を握っていた
自分は神であると公言 → 日田で最高位の宗教者であった
天皇に自分の地位を認めさせた → トップ会談で有利に対応できる

聡明・大胆な女王で、政の実権を持ち、かつ宗教者であって、天皇との会談でも手腕を発揮したことは間違いないと思われます。

卑弥呼もまた聡明・大胆な女王で、政の実権と海を超える実績を持ち、かつ宗教者であって、近隣国のトップの心までもつかんでいました。

両者、かなりの人物です。


日田で出土した金銀錯嵌珠龍文鉄鏡は、卑弥呼クラスの呪術師の女王のものと言われています。

日田で出土したのですから、当然ヒサツヒメのものとするのが妥当でしょう。するとヒサツヒメは卑弥呼クラスの呪術師の女王ということになります。

ヒサツヒメとヒミコが同一人物であっても、なんら不思議ではありません。なお、ヒサツヒメの時代の日田の宗教は、「ヒ」を拝む太陽信仰であったと考えます。





会所山 日田





卑弥呼の墓

魏志倭人伝には卑弥呼の墓は「径100余歩」と書かれ、魏の1歩=1.45m x100プラス ということから、「145mよりも大きめの円墳」ということになっています。

日本で140mを超える大きな古墳は全て前方後円墳で、卑弥呼の墓と推定できる円墳はまだ見つかっていません。

隈山を魏の1歩=1.45mで計算すると118歩で、「径100余歩」の許容範囲に収まる数字です。アーモンドの形ですが、カテゴリとしては円墳でしょう。

隈山が卑弥呼の墓なのかもしれません。つまりヒサツヒメとヒミコは、同一人物なのかもしれません。





日田 椿の巨木

姿の美しい 椿の巨木 日田
樹齢数百年以上のヤブツバキと思われます





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